シリーズ 日本の温泉の化学分析は熱海温泉から始まった その1~その4

一般財団法人静岡県生活科学検査センター 所長 岡野 幸次 氏
一般財団法人静岡県生活科学検査センター 所長 岡野 幸次 氏

皆さんは「宇田川榕庵(うだがわようあん)」の名 前を聞いたことがありますでしょうか?私も恥ずかし ながら、最近になって初めて知りました。 中学、高校の日本史の教科書に登場する人物では、 なかったようで、多くの方は初めて聞かれることだと 思います。著名な植物学者で幕末の日本に来訪した シーボルトと交流があったということで、そのような 時代に活躍されていた人物です。 さて、略歴を紐解いていきますと、幕末(1798~ 1846)の蘭学者、儒学者で、津山藩医(現在の岡山 県津山市)を勤める一方で、西洋の「化学」「植物 学」を初めて日本に普及させ大きな功績を残しました。 「化学」については、代表的著作「舎密開宗」(せ いみかいそう:「舎密」はオランダ語で化学を意味す るChemie の音に漢字をあてた)があります。 この書物は、20数種のオランダ書を参考にして著 したものであり、翻訳書ではありますが、榕庵自身で 実験した記述もあり日本最初の化学書となっています。 天保8年 (1837年)から10年かけて刊行されました。 

この書物には、初めて日本語に訳され、現在でも普段 使用している化学用語が数多くあります。たとえば、 ○元素名 水素、炭素、窒素、 酸素(1900年清朝で使用されたが、中華民国からは 不採択) 榕庵が造語した日本語としての元素名は基本的な数語 にとどめられています。 ○化合物名 コバルト、ニッケル、アルミニウム、マグネシウム、 アルコール、エーテル、アンモニア、アスベスト などの名前として、漢字を現在のカタカナのように 使った音訳名を用い、それが今日のカタカナ書きのに定 着しています。(例:箇抜爾多(コバルト)、亜爾箇児 (アルコール)) また、硫酸、硫酸銅、酢酸鉛、硫酸曹達、硫酸加里な どの無機化合物名を初めて使っているが、その命名法は 食塩の化学名「塩化ナトリウム」の例で見てみると、当 時のオランダ化学書には、chloor sodiumとなっていた のをそのまま日本語に移していて、陰イオン-陽イオン の順(塩酸曹達(現在の塩化ナトリウム))となってい ます。現在の英語名は、陽イオン-陰イオンの順で Sodium Chlorideでありますが、日本名は、英語名と 逆に、陰イオン-陽イオンの順で塩化ナトリウムと命名 するようになったのは、この時の影響とみられています。 このようにして、日本語命名法のシステムづくりがス タートすることとなりました。 ○その他(用語、実験装置) 酸化、還元、結晶、澱粉、蔗糖、瓦斯、可溶、 化工、吸着、結合、原料、試薬、常温、昇華、成分、測定、沈殿、醗酵、漂白、物性、 等々という用語、キップのガス発生装置、比重計な どの実験装置の図 これまで、お話ししてきたように、榕庵は、日本の 化学の船出に大きな貢献をしていたということがおわか りいただけたかと思います。 こうした活躍の中で、榕庵は、「諸国温泉試説」と いう原稿を書き残しています。それによると、温泉の研 究を始めたのは文政11年(1828)で、この年の3月、榕 庵は、熱海の温泉水を手に入れ、実験を始めることに なったとあります。(次号へつづく)

 

【参考文献】芝 哲夫:「日本の化学の開拓者たち」、 裳華房 杉本 つとむ:「江戸洋学事情」、八坂書房 芝 哲夫:「認定化学遺産 第001号 杏雨書屋蔵 宇 田川榕庵 化学関係資料」、化学と工業 Vol.63-7 July 2010 津山洋学資料館:ホームページ「Vol23 榕 庵の温泉試説」

その2

宇田川榕庵(うだがわようあん)が文政11(1828)3月、熱海の温泉水を手に入れ、化学分析をした。これが、日本で初めての温泉の化学分析、しかも静岡県内の熱海温泉で行われたということなら、あと5年弱で200年を迎えることになり、大変、興味深いということで、早速、岡山県津山市へと向かった。榕庵は。津山藩医(現在の津山市、勤務場所は江戸藩邸)を勤め、幕末における洋学の普及に功績があったことから、榕庵の先代(玄随、玄真)を含め、宇田川家3代として地元の偉人として取り上げられており、その数々の偉大なる業績が津山洋学資料館に常時、展示されている。そして、市内の浄土宗 天崇山 泰安寺(たいあんじ)には、宇田川家3代の墓がある。熱海温泉組合の御協力を得て、熱海温泉の大湯を墓前に献上し、生前の業績に感謝し、今後、調査研究を進めていきたいと墓前に報告をした。

 

 榕庵の「諸国温泉試説」という手稿(原稿)は、公益財団法人武田科学振興財団 杏雨書屋(きょうう しょおく:大阪市)に公益社団法人日本化学会認定化学遺産第001号「杏雨書屋蔵 宇田川穃庵化学資料」の1つとして、収蔵されている。幾多の分析を行った温泉が集積されている中で筆頭が「豆州熱海温泉試説」である。原本を複写したものを閲覧(一部複写)することができる。早速、「豆州熱海温泉試説」を紐解いていくことする。「文政十一年戌子歳三月 家大人豆州熱海ノ温泉二浴セントス 不肖ニ命メ其泉ノ性ヲ試ニ験セシム 四日市ニ熱海泉ヲ販ク家アリ乃チコレヲ得 験メ其ノ性ヲ知ル(以下省略)」(訳:文政11年(1828)3月 榕庵の養父玄真が熱海の温泉に湯治に出かけたいので、不肖私に、事前にその泉質を分析するように命じられた。 江戸元四日市町に熱海温泉を販売する店があったので、これを入手し、分析し、その泉質を知ることになった。)原本に当たり、文政11年(1828)3月の熱海温泉水の化学分析の実施が本人の著述から確認されたところであるが、「江戸元四日市町に熱海温泉を販売する店」については、入手した店名も明らかにされていないので、もう少し、具体的な史実を求め探っていた。熱海市史によると「徳川家康が汲湯を伏見に取り寄せて吉川広家に提供した」、「大湯の湯が江戸に輸送され、江戸市民に提供されていた」、「酒の匂いをぬくため温泉に30日間ほどひたした樽を、しばらくたくわえておいて、これに汲みたての大湯の湯を詰め、日本橋に運んでいた(『熱海温泉圖彙(あたみおんせんずい)』)」との記述がある。どうやら、熱海の大湯の温泉水は樽詰で江戸に運ばれていたようだ。しかし、熱海市史の記述「大湯の湯樽を買い入れた江戸の店はわかっていない」や他の著述をみても、今まで、熱海温泉を手に入れた店は不明とされていた。津山市の調査から戻ってきたところ、急に「江戸の元四日市町」がどんな場所か気になり、早速、Googleで検索してみた。「元四日市町」と入力すると、中央区日本橋一丁目の現在のビル街の風景が現れ、その下の概要欄の「伊豆熱海温泉出張所の熱海庵があった(買物独案内)」に目が留まった。さらに「江戸買物独案内」へとネットをたどると「江戸時代の江戸の食べ歩きガイド」のような冊子で、なんと「櫻井甚五郎出店 豆州熱海温泉出張所」の案内広告があり、熱海温泉の効能書きのあとに「樽売 1樽に付き 正味五匁」と販売価格まである。ついに「江戸元四日市町」に熱海温泉を販売していた店があったということが判明した。そして、これは、熱海市史の記述「山東京山によれば、文政13年ころで1樽の値段は船賃を含めて銀5匁」とあり、販売価格もピタリと一致した。(江戸後期の相場で銀1匁=2,166円と想定すれば、10,830円程度) 榕庵の墓前参拝の翌日のことである。(次号へつづく) 

 

 参考文献

宇田川榕庵「諸国温泉試説」杏雨書屋所蔵 芝 哲夫:「認定化学遺産 第001号 杏雨書屋蔵 宇田川榕庵 化学関係資料」、化学と工業 Vol.63-7 July 2010 「熱海市史」上巻、p545~546 津山洋学資料館:ホームページ「Vol23 榕庵の温泉試説」 国文学研究資料館 国書データベース「江戸買物独案内」 写真 宇田川榕庵の墓前(泰安寺)に熱海温泉を献上(協力:熱海温泉組合) 注 宇田川榕庵の名については、本人の原著では「榕菴」が使用されているが、異字体として、同一に扱われているため、本稿では、「榕庵」で統一した。

 

その3

「宇田川榕庵(うだがわ ようあん)」が熱海の温泉水を手に入れ、化学分析をしていたということが。本人の著述等により、文政11年(1828)3月であることが確かめられた。さらに、これ以前の温泉の化学分析について、どうだったのか見ていく。ドイツ人医師シーボルト「江戸参府紀行」(原名:NIPPON)は、1826年2月15日~7月7日(文政9年1月9日~6月3日)オランダ商館長が将軍へ参府の際に随行したシーボルトらの出島から江戸を往復したときの紀行記(1832年第1分冊出版、以後1852年までに20分冊を出版)がある。「1 長崎から小倉への旅」の中では、出発日の1826年2月15日(文政9年1月9日)の紀行文の中に、雲仙岳の麓(小地獄、大地獄、小浜)、阿蘇火山(栃ノ木、地獄温泉、垂玉、湯ノ谷)、霧島火山等の周辺の温泉について、化学分析結果に基づく記述がある。2月17日には、嬉野温泉に到着し、シーボルトの助手で薬剤師のビュルガーが比重、湯温の測定、試薬による化学分析を行ったとの記述がある。後者(2月17日)については、分析日時を明確に確認できるものであるが、前者(2月15日)の記述中では、化学分析を行った日時は明らかにされていない。しかし、宇田川榕庵が熱海温泉の化学分析を行った1828年より前に、外国人の手により、日本の温泉の化学分析が行われていたということである。前者(2月15日)の紀行文中の化学分析は、いつ行ったのかを調査するのに重要な論文が中川昭三により発表されている。ビュルガーの分析結果報告書の原本がオランダ国立ライデン博物館に保管されており、これを基に現在の分析結果と比較している。論文に使用されている報告書によると分析年は1827年となっており、江戸参府から出島へ戻ってきてからの分析となる。しかし、分析結果が報告書として残されていないものもあるということであるが、よりどころを残存する当時の資料のみによって判断していくことにする。併せて、江戸参府以外の際に、外国人が出島の外に出ることは、許さないとのことであり、どのようにして、日本の温泉の化学分析を行うことができたのか、疑問を生じる点もあり、結局、推測の域を出ないと思われる。こう言った背景の中、現在の温泉の文献やホームページの中にも、「嬉野温泉の化学分析を行い、これが日本初の温泉分析となった」「雲仙・小浜温泉等についてビュルガーは我国で最初の化学分析を行った」との異なった見方の記述がなされているものと思われる。さらに、「江戸参府紀行」から得られる重要な点は、宇田川榕庵とシーボルトの関係が深かったということである。榕庵の作製した植物標本を高く評価し、江戸滞在中(1826年4月10日~5月18日(文政9年3月3日~4月12日))に宿所である長崎屋で頻繁に面会し、長崎に戻るときにシーボルトから植物学書や顕微鏡を贈られたとのことである。「江戸参府紀行」や「シーボルトと宇田川榕庵」では、植物学についての言及はあるが、温泉について情報交換していたかについては、明らかになっていない。 先述の論文によると、ビュルガーが行った温泉分析法は、宇田川榕庵が「舎密開宗」 (1837年~1846年(天保8年~弘化3年刊行) 外篇の鉱水分析法に類似しているとのことであり、温泉分析についても、何らかの情報交換をしていたと考えるのが普通ではないかと推察する。加えて「江戸参府紀行」の行程で、熱海温泉は含まれておらず、当時、横綱級であった温泉が外れていた点は、シーボルト一行にとって、残念なことではあったが、宇田川榕庵にとっては、日本を代表する熱海温泉にて、日本人初の化学分析を行う機会を得ることができ、大変、意義深いものとなった。

以上、述べてきたように、歴史的に見て、「日本の温泉化学分析はビュルガーにより、はじまった」という事実は確認とれたが、「宇田川榕庵は日本人としてはじめて日本の温泉化学分析を行った。この分析の1番はじめは、熱海温泉であった」ということも強調しておきたい。 (次号へつづく)

 

参考文献

ジーボルト著、斎藤信訳「江戸参府紀行」平凡社

中川昭三:ビュルヘルの鉱水分析について,長崎県衛生公害研究所報,21,93~106(1980)

中川昭三:ハインリッヒ・ビュルヘルの鉱水分析(Ⅲ),長崎県衛生公害研究所報,24,81~93(1982)

熱海市「熱海温泉誌」218~223

高橋輝和「シーボルトと宇田川榕菴」平凡社(注)  シーボルトの名について、「ジーボルト」が使用されている場合があるが、本文中では、「シーボルト」で統一した。また、ビュルガーの名についても、「ハインリッヒ・ビュルケル」「ハインリッヒ・ビュルヘル」が使用されているが、本文中では、「ビュルガー」で統一した。

写真「NIPPON」(九州大学附属図書館所蔵)表紙部分

その4

「宇田川榕庵(うだがわ ようあん)」が文政11年(1828)3月に熱海の温泉水を手に入れ、日本人としてはじめて化学分析を行った。この温泉の化学分析について、どうだったのか見ていく。「豆州熱海温泉試説」(以下「試説」と略)の「泉性」及び「試験説」から・色・臭い・味・比重・液性・水温・定性分析(鉛・銅・鉄・二酸化炭素・明礬) の検査項目を実施している。今回は、二酸化炭素の定性分析について、取り上げていく。二酸化炭素の分析は、小学校の理科で実験した方も多いかと思うが、呼気中の二酸化炭素を確認するために、石灰水にストローでブクブクと呼気を入れると白く濁るということと同じ原理である。石灰水中の水酸化カルシウムが二酸化炭素と化学反応し、炭酸カルシウムの白い沈殿を生じるということである。実際の試験方法は、磁製のレトルト(写真参照)に温泉水を入れ、加熱し、発生する気体を石灰水に導き、白濁すれば、二酸化炭素を含むと判定する。熱海の温泉水では、濁らず、二酸化炭素は含まないとの検査結果を得ている。現在の熱海の泉質のうち最大の割合を占めているのは、塩化物泉(ナトリウム-塩化物泉型又はカルシウム-塩化物泉型、熱海温泉誌p314)となっており、単純二酸化炭素温泉(限界値: 1000mg/kg)に分類される程度の遊離二酸化炭素は、含有していない。現在の鉱泉の定義「塩化物泉」に出てくるナトリウムイオン、塩化物イオン、カルシウムイオンは検査されていないので、分析した当時の泉質を判定することはできないが、二酸化炭素を含有する温泉(例:単純二酸化炭素温泉)には、該当していなかったようだ。(正確には、当時の石灰水による二酸化炭素の定性分析の検出限界を調べての判断となる)

この石灰水を用いて二酸化炭素を含有する温泉か否かを判定することについて、興味深い話がある。「その3」において、参考文献とした中川昭三の論文の中にその記述がある。ビュルガーの分析結果報告書の原本を基に現在の温泉の分析結果と比較しているが、この論文の「4.小地獄の温泉水の経年変化」の項に、ビュルヘルの検査の誤りを指摘すると試薬の石灰水が変質して反応しなかったことである。これは彼が行った全分析結果で反応しておらず、現在の分析成績を調べると嬉野・武雄が重曹泉で阿蘇山にある栃木、垂玉、地獄の各温泉でCO2、HCO3-をかなり含むことが明らかである。熱帯を船で運ばれ年月の経過した試薬を使用時に検定することを怠った為である。ビュルヘルとは、「その3」で取り上げた「日本の温泉化学分析はビュルガーにより、はじまった」このビュルガーのことである。他方で、宇田川榕庵による「舎密開宗」外編 〇巻1 第十九章 石灰水の冒頭で下記のように記述している。(参考文献から現代語訳部分を引用)石灰水は用途が多く、試薬箱中のものは早く使い尽くされて、長く用いることができないので、生石灰を貯蔵して、そのつど石灰水を製造するとよい。明らかに、石灰水を用いた二酸化炭素の定性分析については、宇田川榕庵に軍配があがる。ちなみに、現在の鉱泉分析法指針における二酸化炭素の分析は、定量分析となり、「遊離二酸化炭素の容量法」に基づき、酒石酸―クエン酸塩混液を用いた滴定法が採用されている。

今回、話題とした石灰水の変質であるが、分析機関としては、分析試薬の品質管理は、大変重要な事項で、「試薬管理簿」を設け、「試薬瓶等」には、使用期限、保管場所、保管方法などのうち、必要な項目を記載するなど、変質防止対策を徹底したうえで、日々の分析を実施している。

 

参考文献

宇田川榕庵「豆州熱海温泉試説」杏雨書屋所蔵

中川昭三:ビュルヘルの鉱水分析について,長崎県衛生公害研究所報,21,93~106(1980)

熱海市「熱海温泉誌」314

宇田川榕庵「舎密開宗 ― 復刻と現代語訳・注 ―」講談社

環境省自然環境局発行「鉱泉分析法指針」(平成26年改訂) 

画像:「レトルト」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。2024年3月28日15時(日本時間)現在での最新版を取得。